みなさんお元気でしょうか。

一年で最も憂鬱な(少なくとも僕にとっては)梅雨の時期ももう少しで終わりですね。

しかし、かのジョン・レノンさんも楽曲「Rain」でおっしゃっておられるように、

「わかるかい、何事も気の持ちようなのさ」ということなのでしょう。

目の前の出来事に一喜一憂していてはいけませんね。それから、雨やなんかの自然現象に文句を言ってはいけません。

私たちの食料となる農作物にとっては必要な、「恵みの雨」でしょうから。


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さて、僕は最近(ひと月くらい前から)、ジョギングを再開している。

毎朝ジョギングするのは、20代中頃以来である。

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「春雨」やなんかをせっせと作っていた21歳の頃は毎朝必ず、早朝に走ると決めて毎日を過ごしていた。

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そして、スタートしてから部屋のドアの前に戻ってくるまで、絶対に立ち止まらない、というのが

自分で自分に課したルールだった。

その頃の僕にとって走るということは、体を鍛えるというよりも、精神的な物の方が大きかったのだろうと思う。

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作曲というものを、今よりも何倍もストイックな修行のように捉えていて、毎日それを始めるしるしのようなものだったのだ。

しかし、それから5年ほど過ぎたあたりから、どうしても止まらずに走りきるのが難しくなってきた。

難しくなるけれど、ルールを守ろうとするから、それで一度、体を壊して風邪をひいてしまった。

これが、僕にとっての体力的な一つの分岐点だった。それ以来、毎朝のジョギングを僕はやめることになった。


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では、今はどういう走り方をしているのかというと、短い距離(若い時の1/3ほど)を走る。

体調が今ひとつかな、と思う日・雨の日は気にせず休む。その代わり、調子のいい日には夜にももう一度走る。

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若い時は、走ると決めたら毎日絶対に休まない、ということでなければ嫌だったのだけれど、今はそう肩肘を張らず、

臨機応変に実行している。僕も歳をとって柔軟になったのだな、と思う。

まぁ、柔軟というか、いい加減というか、歳をとるというのは、良くも悪くもそういうことである。


15年ぶりにジョギングを再開して思うことは、当時とやはり同じで、集中力が大きく増すということである。

走らない日に比べると、時間を忘れて作業に浸っていることが多い。

人間、陽を浴びての継続的な運動はやはり大事である。


トルストイも名作「アンナ・カレーニナ」で登場人物に語らせているけれど

(トルストイはそういう手法で読者に様々な啓示を与える)、

「農作業のような肉体労働こそ、人生の喜びである」ということなのだと思う。

流石に僕は田舎に住んで農業を営んで、ということは出来ないし、する気もないのだけれど、

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言わんとするところは非常によくわかる。それは「頭が逝く前に、身体を逝かせる」ということでもあると思う。

それが出来ないから、コンピュータやスマート・フォンばかりいじっている現代人は、病むのかもしれない。


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そんなわけで、僕の生活の一部は、二十歳頃のそれに戻りつつある。

そこで創り出す何かが、僕自身を刺激してくれる気がしている。


何を創るのか、どうやって創るのか、そもそも、創ることが出来るのかさえ

皆目わかりもしないのだけれど。

「走るということ 2000と2020」

2020/07/19